今日から現代朗読協会の5月始まり「現代朗読基礎コース」と「朗読ライブ出演コース」がスタートした。
まだ始まったばかりなので、途中参加も可能。
興味がある方はどうぞご参加ください。
午前中は基礎コース、午後はライブコース。
いずれも「現代朗読」における「表現」とはなにかについて、基本的なことをまずしっかりと押さえるためのエチュードと講義をおこなった。
そもそも表現とはなんだろう、ということだ。
現代朗読において表現とは「自分自身のユニークさや独自性のいまこの瞬間のありようを他者に伝える行為」と定義している。
朗読はテキストを読みあげる形を取るが、テキストの内容を「伝達」する行為は、表現とはちがう。
わかりもしない作者の思いとか、読み手が勝手に決めつけている作品のテーマといった「思い込み/妄想」をオーディエンスに押しつけることでもない。
ただ正直に自分自信のいまこの瞬間のありようを、テキストを読むという行為を通じて表現するのが、現代朗読における表現である。
表現にも2種類あって、ひとつはプリペアド、つまり準備され、構築されたもの。
「このような形で伝えたい」という「設計」にもとづいて、それが再現できるように何度も練習し、準備する。
もうひとつは、インパロバイズド、つまり即興性であり、現在性である。
前者は設計し、計画し、準備して、それを表現の場に持ちこもうとするのだが、人間は生き物であり、毎日変化する。
一瞬としておなじ瞬間はない。
昨日準備したことを、今日おこなおうとしても、無理が生じる。
その無理を埋めようとして、さらに何度も練習して、構築を強化していくのだが、それをやればやるほど生き生きしたものから遠ざかっていく。
コンテンツとしては瑕疵のないものが完成するかもしれないが、表現行為としては死んでいるといわざるをえない。
商業コンテンツはしばしばそのような形を取る。
自分に正直に、誠実に表現しようとすると、準備されたものを手放し、いまこの瞬間の自分の生命活動に耳をすまし、それをよりどころとして表現していくしかない。
現代人はこういった感受性を決定的にうしなってしまっていることが多い。
それは、社会性を身につけてしまったゆえの結果である。
社会性は社会性として、それとは別に自分の生命活動に深く触れていく感受性を取りもどし、いまこの瞬間の生き生きした表現の喜びに踏みこんでいく必要がある。
一見、そちらはとても不確定で、薄暗く、見通しが悪くて、不安がよぎる。
しかし、いったんそちらに踏みこみ、自分自身の生命の声を聞くことができれば、逆にこれほどリアルな実存はないと実感できるだろう。
それができれば、他人からどんな批判を浴びせられようが、まったく気になるようなことはない。
ただ、自分自身でありつづければいいだけだとわかっているからだ。
すべての人はそれぞれユニークで貴重な存在だ。
しかし、ユニークさ・独自性と奇抜さはまったく別のものだ、という話もした。
ここも重要な観点だ。
概念としてことばをつらねると、抽象的で難解に聞こえるかもしれないが、実際にやることは具体的だ。
自分自身を繊細に緻密に見ながら、テキストを読んでみる。
気づくことが山のようにある。
基礎コースもライブコースも、全10回を通じて、深く深く自分の命そのものに接近し、触れていく。
途中から参加を希望する方や興味をお持ちの方は、現代朗読協会まで気軽にお問い合わせください。
問い合わせ窓口はこちら。
(現代朗読協会主宰 水城ゆう)
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